「失われた公演」を生かすには
近藤誠一(日本舞踊協会会長)
コロナ禍での「自粛」により、6月に予定していた日本舞踊協会新作公演ばかりか、恒例の公演が次々と中止になった。無念さもさることながら、先が見えぬまま長期にわたって公演自粛を続ける中で、我が国では社会が文化芸術の特性を理解した上で適切にサポートするという態勢にないことが浮き彫りになった。
例えば演劇や舞踊、音楽などの舞台芸術が身体による実演であり、演者同士と観客との触れ合いがその基本にあるという特性が、かえって事態の処理に大きな困難を課すこととなった。演者仲間や地方さんとともに1~2カ月かけて稽古を重ねなければ本番はできないが、舞台が決まらぬままでは稽古のしようがない。稽古場は「三密」そのものだ。
演者の「勘」を維持するために、制約ぎりぎりで本番をやっても、会場の入場制限のために経営は成り立たない。オンライン配信では、舞台の真の魅力は生まれない。
自粛期間中の文化芸術活動への政府補助は不可欠だが、単に「食べていける」ためだけの支援では十分でない。それだけでは、切磋琢磨の機会を失った演者の芸は衰え、それが文化全体の衰退につながるからだ。
舞台芸術が自粛の対象とすべき「不要不急」の事業か否かだけでなく、社会における文化芸術の位置付けに関する国や社会全体の理解、否それを理解しようとする姿勢が十分だったとはとうてい言えない。
ドイツはいち早く政府による文化芸術支援策を発表した。そこで政府の幹部はこう述べた。
「(政府による救済は)経済的な救済であるだけでなく(中略)、中止・キャンセルによって激しく揺さぶられている文化の世界を救うことでもあるのです」(2020年3月11日 グリュッタース文化大臣)
「文化的催し物が表現しているのは、わたしたちについてであったり、わたしたちのアイデンティティについてだったりします」「アーティストと観客との相互作用の中で、自分自身の人生に目を向けるという全く新しい視点が生まれるからです」(2020年5月9日 メルケル首相)
国づくりや市民生活に果たす文化芸術の役割を改めて考え、行動に移す機会と捉えるべきである。「新しい日常」が、テクノロジーの効率性を基礎とした激しい競争に追われるAI社会になるのか、「無駄」や「遊び」が存在するこころ豊かな人間社会になるのか……。答えは決まっていない。決めるのは政府ではなく、コロナの自粛を経験した我々市民ひとりひとりなのだ。
2020年9月26日
日本舞踊協会
https://nihonbuyou.or.jp/